柳岡広和君のイニシエーション・スピーチ

2018.05.25

先日の卓話で中国経済についてお話させて頂きました。本日は私と中国との関わりについてお話しさせていただきます。
私は中国ビジネスに関わって40年、中国滞在は通算で25年になります。元々はアメリカの大学を卒業したこともあり、中国ではなくアメリカでの勤務を希望していました。1979年中国が民間企業からの留学生を受け容れることになり、たまたまアメリカの大学で初級中国語を履修していた私が行くことになりました。

当時の中国は大変貧しく、留学生生活も大変厳しいものでした。部屋にはゴキブリ、ハエ、ネズミが出没、風呂も夕方2時間のシャワーだけ。洗濯機がないため服は全て手洗いでした。生まれて初めてあかぎれを経験しました。1981年に日本に戻り、5年後の1986年、上海に赴任しました。

当時の上海も未だ遅れていましたが、経済発展の兆しは見え始めていました。1989年6月天安門事件が勃発。一旦日本に戻りますが、2日後には社命で上海に戻りました。それから半年間全く仕事のない状況でした。1980年代を通じて日中関係は大変良好でしたが、天安門事件以降愛国教育が始まり、日本との関係が次第に悪化していきました。1990年の暮れ上海を離れ、日本に戻りました。

1992年憧れのニューヨークに赴任しました。1995年NYで新しいプロジェクトの立上げを準備万端に整えた時に、急遽北京行きの辞令を受けました。NYの生活をエンジョイしていた家族は大不満でした。

1995年、北京で外銀では初めての支店を立上げ、副支店長として働き始めました。生活環境は大分良くなり街には花屋さんも現れました。北京では3年勤務して1998年帰国しました。日本では東アジアの支店管理をしていました。1999年12月天津支店立ち上げのため天津に赴任しました。4月に支店開設、6月に日系自動車メーカーが天津に進出して大変忙しい毎日でした。天津には支店長として約3年勤務した後北京に転勤しました。

2003年3月北京に着任した直後に新型肺炎のサーズが発生、対応に追われる毎日でした。2004年日本人学校の理事、その後理事長に就任。脱北者問題など一般企業とは少し違った難しさを経験しました。2005年反日デモが発生し銀行の看板に向けた投石が行われました。報道と実際の違いを感じました。

2006年末、現地法人銀行設立を決定。設立準備委員長に指名され、30名の仲間と約半年の設立準備を上海で開始しました。2007年7月3日、現地法人銀行が開業し私が初代頭取となりました。
設立後数週間経ったある日、現場で大きなトラブルが発生しました。全力で対応した結果、事態は数日で収束する事が出来ました。このような事案発生後は迅速かつ誠実で適切な対応が必要であると思った事案でした。お蔭様で中国の現地法人銀行はその後順調に成長して、現在中国全土に約20拠点を構えています。